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apple 例えば、あなたが “りんご農家” だったとします。

どこにでも売っている普通のりんごを作っています。普通のりんごなので、価格競争は避けられません。規模が大きい農家は何とかやっていけますが、あなたの農園は薄利で厳しい状態です。

ある日、農業コンサルタントと名乗る人が来てこう言いました。『普通のりんご作ってちゃダメだよ。オーガニック作らなきゃ。時代は差別化だよ差別化!オーガニックなら高く売れるよ。』
あなたはそのアドバイスに従い、オーガニックりんごを作ることにしました。

確かに値段は高くなりました。しかしコストも高いのでこれまたかなりの薄利です。時には赤字にもなります。情報化社会の現代では、儲かるものにはすぐに多くの生産者がたかってしまい、あっという間に価格競争になってしまうようです。『差別化なんて、今の時代そう簡単にできるわけないだろ!あのソニーだって差別化で苦労してるんだから。』今更ながらそう思ったあなたは、もう策が尽きた気がして、りんご農家はそろそろ辞めるべきなんじゃないか・・・と考えるようになりました。

とりあえず東京に出て就職先を探してみることにしました。大学時代の友人に就職の相談をしたところ『今週末ウチの庭でBBQパーティーやるから来いよ。いろんな大企業の人達来るからさ!』と誘われました。幸せそうな一流企業の会社員達vs農家(失敗者)というあまりにも痛々しい構図の会ですが、就職するためなら・・と思い参加する事にしました。

行ってみたら予想通り、参加した事をすぐに後悔する展開になりました。話に入れず一人でポツン。活き活きとして幸せそうな一流企業の会社員とその家族達を遠くから眺めながら、『もしあの時、脱サラして実家を継ぐなんていう決断をしていなかったら・・ 俺だって・・今頃きっと・・。』 そんな事を考えながら、沸き上がる嫉妬心をひたすらビールで洗い流しました。

会も終盤に差し掛かった頃、いつの間にか予想もしない展開になっていました。なぜか、みんなが自分に注目しているのです。あなたは会の中心にいて、しゃべっていました。オーガニックにも種類が色々あるんだという話や、オーガニックで作物を作ることの苦労やその難易度の高さ、そしてその苦労の末に実ったりんごを収穫する時のたまらない喜び。“それを売っても実は儲からない”という話だけは省略しましたが、それ以外はりんご作りに関する様々な事を熱っぽく語っていました。別に酔っ払ってヤケになったわけではありません。みんなから色々聞かれたから話したのです。参加者の多くがアウトドア好きで自然やオーガニックに興味がある人達だったのです。作物を育てる大変さと実った時の感動のストーリーは、子を持つ親達の心に深く刺さったようでした。『そういう事を自分も経験したいし、子供達にも体験させたい!』 いつの間にか、来月にはみんなで“りんご作りを体験しにいく会”というのが企画されていました。

この会はその後、初回の人達の知り合いに口コミで拡がり、毎週末開催されるようになりました。参加する家族達は、りんご作りについて熱く語るあなたを羨望の眼差しで見つめ、農作業を通して参加者同士の交流も生まれました。ここに“オーガニックのりんご作る”という目的を持ったひとつのコミュニティーが誕生しました。そしてあなたは、そのコミュニティーのシンボルになっていました。

収穫時期は毎年大変でした。一家総出で必死に収穫に励みながらも『これを売って、果たして儲かるんだろうか・・』という不安にさいなまれる日々だったのです。しかしこの年は違いました。コミュニティーの多くの人達が『収穫の感動を体験したい!』と殺到したのです。今回は人手不足に窮する事もなく、コミュニティーのみんなと一緒に収穫をする事になりました。更に今年は売上の心配もありません。みんなが自分達が関わったりんごを買いたいと申し出てくれて、全てのりんごが売れてしまったのです。しかも価格は市場価格の3割増し。十分な利益を得ることができました。

収穫を終えた後、あなたはコミュニティーのみんなにお礼のお手紙を書き、想いの丈を綴りました。

今までは利益が出なくてギリギリだった事、本当はあの時りんご作りを辞めようと思っていた事、今までは世間からかけ離れた孤独な農家だったのに、今年はこんなに素晴らしい仲間が出来た事。そして今までは経験した事がないような感動的な収穫をみんなと分かち合うことができた事。脱サラして農業を継いだ事をずっと悔やんで生きてきたけど、今やっとこうして自分がやっている事に誇りを持って生きれるようになった事、そしてこれらは全て、りんご作りに参加してくれた皆さんのお陰なんだ!という事。

嘘偽りのない、心からのお礼でした。

コミュニティーのみんなは、これからもあなたのりんご園を応援する事を、心の中でそっと誓いました。
だってそのりんごは、ただのオーガニックりんごではないのですから。

あなたの想いと コミュニティーのみんなの幸せを 甘い香りで包み込んだ
特別な味がするりんごなのですから。


あなたも、自社の商品やサービスを主人公にした、特別なコミュニティーを作ってみませんか?

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shoe まさかこんな素朴な一人の青年が、後に世界に知れ渡る一流ブランドを作ってしまうなんて、誰も思わなかった事でしょう。

イタリアが誇るオーダメイドの高級靴店“Rizzo”は、イタリア北部のマチェラータという小さな街で生まれました。地元の靴工場で働いていた22歳の青年ブルーノ・リッツォが、自宅でオーダーメイドの靴工房を開業したのが始まりでした。貧しく、開業資金も無いブルーノでしたが、ひとつだけ大きな資産を持っていました。それは、父の形見である靴作りの工具セットです。ブルーノには父の記憶がありませんでした。ブルーノが3歳の時に第二次大戦中の混乱で父は亡くなっていました。靴職人だった父が戦場に行く前に母に託したこの工具セットが、ブルーノと父を繋ぐ唯一の絆でした。

ブルーノは母と2人の妹を養うため、11歳から靴工場で働いてきました。開業当時22歳とはいえ靴職人歴は11年。既に一流の腕を持っていました。
ブルーノの靴工房“Rizzo”は、瞬く間に地元の名士の間で有名になりました。ブルーノが作る靴は、ただ足にフィットするオーダーメイドの靴ではなかったのです。客の洋服や趣味などから好みのシェイプやデザインを察知し、その人に似合うテイストが加えられた靴を作っていたのでした。それはまさに靴というよりも、世界に一つしかない芸術作品でした。

Rizzoはその後ミラノに移転しました。そして靴職人として有名になったブルーノには数多くの弟子が付きました。ブルーノは弟子達に丁寧に靴作りのノウハウを教え、熟達した弟子には新しい店を出店して任せるようになりました。こうしてRizzoはイタリア国内に8つの店舗を持つ、高級オーダーメイド靴店として有名になりました。

ブルーノには息子が一人いました。30歳の時に生まれたアントニオです。幼い頃からいつもブルーノの工房に入り浸り、靴作りが大好きな少年でした。またアントニオは数字に強いとても聡明な子供で、小学校に上がる頃には集金の計算や材料の管理などまで担当するようになりました。20歳になる頃にはRizzo社の経営の一部を担うようになり、いつしかアントニオは『父が作ったこのRizzoを、世界的なブランドにしてみせる!』という夢を抱くようになりました。

アントニオはビジネスを学ぶため、フランスにあるインシアードのMBAに留学しました。そこでRizzoをグローバル・ビジネスに育て上げるためのノウハウを精力的に学びました。様々な企業の経営者を訪問しては彼らから多くの事を学び、講義の無い日には有名ブランドの工場を見学に行く日々でした。卒業する頃には、世界中の人々がRizzoの靴を履いているイメージをかなり鮮明に描けるようになっていました。

イタリアに戻ったアントニオは、父ブルーノに世界展開の話をしました。オーダーメイドではなく大量生産方式に切り替えることにブルーノはかなりの抵抗を覚えましたが、息子アントニオの希望に満ち溢れた夢をなんとか実現してあげたいという想いの方が勝り、アントニオの計画を進める事に同意しました。

アントニオは、父が作った代表作5つにデザインを絞り、工場での生産を開始しました。生産はイタリア国内にこだわり、Rizzo社発祥の地であるマチェラータで生産しました。価格はかなり高価なものでしたが、Rizzoの斬新なデザインと優れた品質の靴は世界中で人気となり、生産が間に合わない程の大ヒットとなりました。アントニオが40歳になる頃には、Rizzoは世界中に知れ渡る高級靴ブランドとしての地位を確立しました。

アントニオがどんどん工場を拡張していたその時、欧州危機が発生しました。その前から景気低迷が深刻だったイタリアでしたが、いよいよこれで完全に元気を無くしてしまいました。欧州も米国も不景気で、高級ブランドは軒並みピンチに立たされるようになりました。更に不景気に乗じて、ファストファッションのブランドが数多く台頭してきました。Rizzoと似たようなデザインの靴が、5分の1くらいの価格で市場に出回るようになってしまいました。Rizzoの経営状態はみるみる悪化していきました。

アントニオはこの危機を乗り越えるべく、Rizzoの低価格ラインを立ち上げる計画を立てました。中国やアフリカで生産し、ファストファッションブランドに少しでも価格で対抗しようという苦肉の策でした。国内の工場は閉鎖を余儀なくされそうでした。工場の従業員やマスコミは地元出身のヒーローであるRizzo社がイタリアを裏切るのか!と言ってアントニオに詰め寄りました。また、銀行も膨れ上がった負債の返済を激しく迫ってきました。更にその時、76歳になった父ブルーノが入院しました。癌でした。アントニオはいよいよ公私共に窮地に追い込まれました。

入院している父を見舞いに行ったアントニオに、ブルーノは言いました。「お前の夢は、もう立派に成し遂げたじゃないか。俺が作ったあの小さなRizzo工房が、今じゃ世界中の人が履いてくれるブランドになったんだぞ。俺はお前に感謝してるし、誇りに思ってるよ。」アントニオは父のこの言葉を聞いても、情けない気持ちが収まりませんでした。父が作ったあの誇り高いRizzoを、自分が台無しにしてしまったんじゃないか・・。そんな気持ちでいっぱいでした。

ブルーノは、ベッドの下からある物を取り出して息子に渡しました。それは、ブルーノが亡き父から受け継いだ、あの靴作りの工具セットでした。「これでもう一度、一緒に靴を作らないか?」ブルーノはそう言って、息子の手を硬く握りました。

Rizzoはその後工場での大量生産をやめ、オーダーメイドの靴を手頃な価格で提供するブランドへと転換していきました。工場は閉鎖しましたが、従業員の多くをブルーノの弟子として再教育し、オーダーメイド職人として育てました。一度は病床に付したブルーノでしたが、その後退院し精力的に弟子達に自分の技術やテイストを伝授しました。弟子達は完璧にとは行かないまでも、ブルーノのように客の趣味やセンスを感じとって、とっておきの一品を作り上げられるようになりました。

今ではRizzoはイタリア国内に140店舗を持つ完全オーダーメイドのトップブランドとなりました。世界には展開していませんが、世界中からRizzoの靴をオーダーしに来るほどです。ブルーノは癌を抱えながらも82歳まで現役で活躍し、後に工房内で亡くなりました。弟子達が一人前の職人になり、Rizzoの再建ができるまでは死ねなかったのでしょう。しかしその驚異的な体力の持続ぶりは医者も驚くほど奇跡的でした。今では52歳になったアントニオが父に代わって弟子達にブルーノ式の靴作りを教え込んでいます。アントニオは今でもあの工具セットを使って靴を作っているそうです。彼曰く、あの工具セットがRizzoの、父の、そして自分の最も大切な“基礎”なんだそうです。

オーダーメイドなので、手頃とは言え普通の靴よりかなり高額です。巷には似たようなデザインの靴が安く売っています。それでも人々は高額を払ってRizzoで靴をオーダーします。また、職人の習熟度合いによっては、たまにフィットしない靴ができあがる事もありますが、それでもRizzoの客はクレームで騒ぐこともありません。

それはなぜかと言うと、Rizzoの客はみなこのブルーノとアントニオの親子の物語を知っているからです。亡きブルーノの味のある技術を受け継ごうと、アントニオと弟子達がひたむきに努力していることを知っています。Rizzoの客にとって、出来上がった靴は皮を縫い上げたただの履物ではありません。

これを履いて歩くと、Rizzoの物語から様々な事が感じられるのです。自分にも身に覚えのある、父と息子の無骨な信頼関係。激動の時代を前向きに生き抜いていく男達の姿。人生で大事なものはいったい何なのか?という問いを自分に投げかけてくれるような、そんなロマン溢れる一品なのです。Rizzoの顧客はただの客でもファンでもなく、このブランドに“PROPS”を抱いている特別な人達なのです。

“PROPS”という言葉をご存知でしょうか? 愛情や尊敬に近い感情を表す俗語で、元はアメリカの音楽シーンで生まれた言葉です。PROPSを育んでいる商品やブランドは、流行が変わろうとトラブルが起ころうと、顧客は離れていきません。逆に窮地の時には応援してくれます。現在は多くの欧米企業のマーケティング部門でこのPROPSを創造するための施策が行われています。

実は、上でご紹介したこのRizzo社の物語は、会社も人物も含め全て架空のストーリーでありフィクションです。しかし、この物語を読んだだけでもRizzo社にPROPSを感じて、ググッてみてくれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

この物語はフィクションですが、現存する様々な商品やブランドも人間が作っている以上、恐らくこのようなバックストーリーがノンフィクションで存在するのではないでしょうか。創造した人達のドラマや想いがあれば、それは単なるモノやサービスではなく、大きなロマンを含んだ特別なものとなり得るのではないでしょうか。

製品の性能や質へのこだわりと共に、このPROPSの創造にも今後注力してみませんか?

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financial IT技術の発達で、会計まわりの業務は低コストで効率良く行うことができるようになりました。特に米国では会計ソフトや税務ソフトの発達が著しく、プロでなくても簡単に様々な業務を行えるようになっています。更に、帳簿やデータ入力などの単純作業に至っては中国のアウトソースセンターを利用してBPO(Business Process Outsourcing)することが、大企業でなくとも可能になってきました。弊所はクライアントが米国内において安価で安定した運営をするために、適切な会計事務所や弁護士の紹介、使用すべきソフトウェア等の会計税務ツールの推薦、人材の斡旋、法人形態の推薦など、管理部門全体のプロデュースを行なっております。

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nobu
Nobu Murata, CPA
村田幸伸 米国公認会計士
1993 清水建設㈱入社。以降7年半勤務
2001 ロサンゼルスに渡米し、会計・税務業務に従事
2002 Bravy, Inc.(米国カリフォルニア法人)を設立
現在までに以下の業務を行う
 米国進出支援サービス
 会計スクールの運営
 オンラインラーニングスクールの運営
 ウエブサイト製作サービス
 ソーシャルメディアサイトの運営
 人材紹介事業
 フォレンジックサービス
2004 大阪産業大学大学院 非常勤講師
3年間以下の科目の教鞭をとる
 米国会計・米国税務・監査論・経済学・ビジネスロー
2007 月刊『経理ウーマン』コラム連載開始
2008 国際会計のプロフェッショナル団体(MFP)を設立
以降3年間運営。2010年に譲渡
2010 一般社団法人リバイブジャパンオーガニゼーション設立
2012年に譲渡。
2011 コミュニティープロデュース事業を開始
2012 Brights, Inc.(米国デラウェア法人)を設立し以下の事業を開始
iPhoneアプリ“Scene”を開発しApp Storeにリリース
2013 PROPSプロデュース事業を開始

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